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2015-09-17

過去の自分を超える

筆本 駿一

今回は僕のホッケーのルーツを書こうと思う。

中高6年間、大阪星光学院でホッケーをプレーしていた。ホッケーを始めたのは別に高い志があったとかそういうのではなく、ただ友人に新歓に誘われ、顧問の先生の勧誘を断れずに入部したのだった。しかし、すぐにホッケーの虜になった。ホッケー部はかなり厳しい部活だったと思う。僕はまじめに練習に励み、それなりに上手くなって高校生になると試合にも出してもらえるようになった(部員不足のおかげ、という説もある)。ただ、まだこのころは本気でホッケーに取り組んでいたのではなく、先輩に言われるまま、受身的にプレーしていた。



転機が訪れたのは高1で先輩に連れて行ってもらった福井でのインターハイである。星光は1-6で敗れた。先輩たちの引退試合を大差で負けてしまったのは本当に悔しかったし、申し訳なかった。能動的にホッケーに取り組もうと決意した。訳あって僕たちの一つ上の学年はいなかったので、高校1年の夏にして部の最高学年になった。それから2年間、僕たちの代はチームをまとめることとなったのだが、本当に大変だった。先輩が引退し、練習のレベルが保てなくなった。練習をさぼる後輩を怒った結果、ホッケーを辞めたやつもいた。秋の近畿大会では3試合で50点ほどとられた。インターハイ予選で敗れ、本戦出場を逃した。今考えれば、本当にひどい1年だった。2年の秋ごろからようやく最高学年が板につき始め、練習もましになった。そして3年の山梨のインターハイになんとか出場することができた。しかし、またしても1回戦で2-7で大敗した。チームの中心となっていただけに一層悔しかった。



一体何が足りなかったのか?引退後もずっと考えていた。

考え付いたのは、「環境」だった。星光のグラウンドは土であったうえに、グラウンドを使えるのは週3日、しかも広さは4分の1面程しかなかった。練習試合も年に2回あるかないかだった。自分よりうまい人がほとんどいなくなり、技術を吸収できなかった。

もちろん、自分の無力をすべて環境のせいにしようとは思わない。けれど、環境が僕の成長に限界を設けたのだ。



そして今、僕はBULLIONSにいる。BULLIONSには僕の求めていたものが、すべてそろっている。美しい人工芝グラウンド、質の高い練習、そしてなにより、本気でホッケーに向き合うチームメイト。

機は熟した。今こそ、星光のホッケーとBULLIONSのホッケーを共鳴させ、過去の自分が超えられなかった限界を突破してチームの勝利を掴み取るときだ。

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